川津の歴史が見える楽山ウオーキングまち歩きガイドブックで歩こうに参加    平成25年10月5日

笠無自治会も参加しました。川津地区まち歩き A 楽山コース 川津ふるさとマップより 所要時間・約60分

霊感寺(真言宗)
松江市西川津町 先祖の霊に供えて参拝したことに
御礼を申し上げました。
帰りに気がつきました境内にある来待石作りの不動明王様は
長年の風雪に風化されやわらかなお顔でした。

お寺の参拝を終え楽山に向かうところです、右側は元慈光園のあったところです
左側は楽山坂住宅地です。
楽山公園内の広場に到着したところです。久しぶりにきました、
トイレが新しくなっていました。仕事中の方がよく車を止めて
休憩する場所となっています。


今日の講師長野先生より公園内に説明を受けながら推恵神社に向かうところです
推恵神社に到着したところです。地元市成の若妻会の 
皆さんが神社の掃除をしておられるところでした。

推恵神社(市成)

推恵神社(享保18年=1733年6代藩主松平宗衍が建立)資料によると2代藩主綱隆の頃、松江藩では藩主の頓死はじめ天災や不祥事が頻発。人々は隠岐に島流しされて死んだ日御碕神社宮司の
祟りだと噂さした。一連の出来事から半世紀も経っていたが、宗衍が実母の忠告で宮司の霊を慰めるためこの神社を建立。松江藩のスキャンダラスな話だけを集めた(雲陽秘事記)などには
尊俊の妻女が大変な美人だったので綱隆がが個室にしようとして、尊俊に不遜な行為があったとして隠岐に流したともいう。
〔見所] 神社裏手の破風の龍の彫刻。大工が自分の固めを犠牲にして龍の実物を見、見事に彫り上げた。如泥、石橋の大工
〔富くじ]松江藩は出雲大社にしか許さなかった富くじ興行を推恵神社には許可。藩が特別な特別な関わりを持つ特殊な神社だったが、例祭の4月12日と7月12日は一般にも公開。楽山焼前の
新道両側には茶店、そば屋、甘酒屋、などが軒を連ね賑わっていた。文化文政10年の栄えた頃の灯篭が通りに一基だけ残っています。(下の写真)
[芝居興行}芝居小屋もあり、上方から呼んだ役者による興行も。福田平治は市成座と命名。藩政時代には松江の代表的な歓楽街だったが、明治22年の市政施工の頃猥雑な賑わいの場は天神裏に移った。
・境内社・御前神社の祭神「清操辺命」は離縁させられた尊俊夫人
熊野神社
(市成)
  
熊野神社は西川津町楽山公園東の丘陵に南面に鎮座しておられ。第2中学校北側より山越えして路地に入ればたやすく鳥居を見つけることができますが、本来の正面は南方大橋川よりかと
思われます。西側の鳥居前には案内板があり、正面熊野神社、北側は推恵神社とあります。境内は法面を削って平地を作ってあり、推恵神社に比べれば狭くも感じますが
南面に面して陽当りもよく。流造りの本殿、入母屋造りの拝殿ともに立派な造りで、舞殿、手水社なども綺麗に整備されております、今日では学園が新興住宅として整備されたものの
昭和の末頃までは朝酌川を堺に南田町の堀までは一面が水田で西川津町市成は一個の集落で、熊野神社はその氏神として篤く崇敬され今も変わらず大切にされていることがわかります。
楽山焼き 窯元見学
  
江戸時代初期の萩の陶工倉崎権兵衛を祖とし、松江藩の御用達として創業したのが始まり。その後一時製造が中断されていたが、1801年に
松平不昧公が名工長岡長右衛門に再興させたもので「御立山焼」や「御山焼」と呼ばれていた名称が現在の名になったのは明治の頃からである。
作品は、茶を愛する代々の松江藩主に寵愛されただけあり、今でも抹茶碗や水差しといった茶道具がほとんどを占めている。
楽山焼の特徴は、刷毛目と「伊羅保写し」といわれる技法で、器は、同名の釉薬を使って仕上げられた落ち着きのある淡い山吹色をしている。
御用窯としての格式と品位を重んじる楽山焼では今なお、土灰づくりとその調合に関しての工夫が施されている。

【製造過程】成形→天日干→素焼き→焼成→施釉→窯積
【主な製品】抹茶碗・水差・香合
【長岡住右衛門】
 
楽山ウオーキングも終わりに近づき小雨の中を公民館に向かって帰るところです。やっぱり歴史のある街でした。
次は4季折々美しい姿を見せる弁天池を散策しこのページを増やしていきたいと思います
笠無自治会の皆様参加ください。お待ちしています。
top

【笠無自治会】
 ホームページURL --- http://kasanasi.jp/
■ メールアドレス--- kasanasi637@gmail.com

 笠無自治会 最終更新日:2016年